9月11日、陸前高田で感じたこと。

今日まで、1泊3日で陸前高田でボランティア作業をし、津波被害が大きかった気仙沼に行ってきました。
大震災からちょうど半年になるこの日に感じたこと、現地で撮ってきた写真など
備忘録もかねて載せておきたいと思います。


9日(金)の22時過ぎに千葉県松戸市を車で出発し、翌日10(土)の朝6時半頃に住田基地に着きました。
住田基地は、岩手県気仙郡住田町にある災害ボランティアセンターです。
元々中学校だった施設で、数年前に廃校になり今回の震災が起きるまで、公民館として使用されていました。
ボランティアに来た人たちが宿泊することができ、正にここの基地。今夜のわたし達の宿泊先です。
まずこちらに荷物を置いた後、陸前高田のボランティアセンターに向かいました。

住田基地に関してはまた後で触れますが、入り口はこんな感じ。


そしてその日のボランティアの仕事状況を確認すべく、陸前高田ボランティアセンターへ。



その日にボランティアがアサイン可能な仕事は、こんな風に掲示板に張り出されます。


この日は特にボランティア参加者が多かったらしく、だいたい2000人ほどだと聞きました。
大型のマイクロバスも数台停まっており、おそろいのTシャツを着た外国人の方々も多く見られました。

わたし達の仕事は、牡蠣の養殖復興支援。
震災時の津波によって、リアス式海岸沿いの牡蠣の養殖イカダが大きな被害を受けたため、
その復興のお手伝いです。
現在イカダのための丸太が足りないこともあり、この日は陸地で主にイカダにつなぐロープ切りの作業。

ロープは長さ7メートルほどに切ってまとめます。


ロープ切りの作業終了後、海辺でこのロープを牡蠣に繋げている地元の方達に挨拶に行きました。


みなさんとてもテンポ良く牡蠣のタネにロープを繋いでいってらっしゃいました。

この他にも元々田んぼだった土地にボウボウに生えてしまった草刈りなどをし、15時半には作業終了。
(海水がしみこんでしまった田んぼには、よく分からないたくましい草がぼうぼうに茂っていました。)

そしてちょうどこの日が最終日となった復興の湯で、ひとっ風呂浴びさせていただきました。


復興の湯は、震災後すぐ、家を被災しお風呂にも入れなくなってしまった地元の人のために
陸前高田市が設置した無料開放のお風呂です。
地元公民館の横に建てられたこのプレハブの銭湯は、ボランティアに来た人など
誰でも無料で使えるため、この本当にたくさんの人たちがお世話になったそう。
とてもありがたいことですが、くしくもこの日が最終日と言うことで、17時から記念式典が行われました。

式典では副市長などの挨拶から、地元小中学生と一緒に体操タイムまで。
地元の人たちとお話もでき、とってもアットホームな雰囲気でした。
(体操のBGMがいきものがかりの「ありがとう」で、わたしはうっかり泣きそうになってしまいました。)


その後は地元の人たちのおいしい炊き出しをいただきながら、副市長も一緒にちょっとした宴。

副市長の久保田さんは、現在35歳。この8月に就任したばかり。
この日は岩手県知事選を含めた3つの地元選挙投票日の前日で、
選挙カーの遊説がどこへ行っても聞こえるようななかなか賑やかな一日でしたが、
「わたしはまだ引っ越してきたばかりだから、投票権ないんですよね~」とのこと。
7月まで内閣府参事官補佐をされていたそうで、震災後プライベートで陸前高田にボランティアに来た際に
市長と話したことなどがきっかけで、家族共々この岩手の地に移住し、現職に就かれたそう。

この時に話した地元の方いわく、津波が来た時、市役所の職員の方も上階の方は助かったけれど、
下の階にいた方は流されてしまったんだそう。
父より少し若い年齢の男性の方の話を、たくさん聞かせてもらいました。


ちなみに震災からちょうど半年の節目のため、野田首相が視察に来たため警備が物々しくもあり
2000人のボランティアに首相に報道陣に選挙遊説にと、なにかと騒がしい一日だったようです。

20時ころに復興の湯を後にし、本日の宿泊先である住田基地へ。
体育館や教室に、寝袋をしきつめて100人以上のボランティアの方々が寝泊まりします。文字通り雑魚寝。
わたしのように1泊で帰る人も入れば、もう3ヶ月もここに滞在している方もいらっしゃって。
北海道から沖縄までの全国各地から人が集まっていました。
年齢は10代から60代後半まで、思いの外バラバラ。

わたしは大学時代に2週間、インドのNGOのボランティアに参加したことがあります。
なんだかそれに近い雰囲気でした。
言い方が適切か分かりませんが、日本じゃないみたいだな、と感じてしまいました。
わたしがこれまで訪れたことのあるアジアの、いわゆる発展途上国みたいな空気でした。
ああ、本当に非常事態なのだな、と。

もちろんこれまでにも日本各地で災害は起きており、その度に今回同様ボランティアの方々が
現地入りして支援をしてきたことはわかっていますが、
わたしにはこれまで国内災害ボランティア経験はなかったですし、周囲でもほぼいませんでした。
でも今回の震災では、わたしの友人知人も大勢の方がボランティアのために現地入りしています。

本当に未曾有の大災害だったのだなと改めて痛感しました。


翌朝、そんな思いで住田基地の写真をいくつか撮りました。

平屋建ての校舎。


ボランティア参加者の中には、校舎内ではなく校庭にテントをたてて過ごしている方も。


みんなが利用する玄関。中学校の校歌や表彰状などもまだ飾ってあります。


長期滞在者は自分たちで洗濯もできます。
(写真にはありませんが、家庭科室もあり自分たちで自由に食材を買ってきて調理することも可能です。)


正直、車中泊も、基地での寝袋による雑魚寝も、学生時代よりも負荷がかかるなと感じてしまったのですが。
他のボランティアの方達の様子がよく分かったので、この形で現地に来てよかったなと思いました。


11日(日)の朝、震災復興のシンボルになっている「奇跡の一本松」を見に行きました。
海岸線約2キロにわたる約7万本の松並木、高田松原で、ただ1本だけ残った松です。


一本松の手前にあった街灯は、ぐにゃりと折れていました。


青い筒状のものが、牡蠣の養殖イカダ用の浮きです。海辺にたくさん転がっていました。


残骸となってしまった牡蠣たち。


その後は津波による火災の被害が特に大きかった、JR大船渡線の鹿折唐桑駅付近へ。


震災から半年経ち、線路にも草が生い茂っていました。
鉄道の復旧は難しそうとのこと。このまま廃線の可能性も。


写真にはありませんが、至る所で撤去された瓦礫の山にぼうぼうと生い茂る雑草を目に見ました。
たくましい。
半年という時間の長さを、感じずにはいられませんでした。
人間が復興するスピードなんておかまいなしに、新しい命は育つのだなあと。
(不謹慎かもしれませんが、ラピュタを思い出しました。)

けれども、わたしがここに来る数ヶ月前には、散らばったたくさんの瓦礫や
被災した方達の遺体があったことを思うと、たくさんの人が力を注ぎ、やっとここまで来られたんだなと痛感します。


駅のホームだった場所の裏手には、火災の痕が残っていました。



わたしが今回ボランティアとして東北被災地に行こうと思った理由は、自分の目で見ておきたかったから、です。
わたしがアメリカ東海岸の中学校に通っていた時に、阪神淡路大震災が起きました。
東海岸のクラスメート達は、生まれてから一度も地震を験したことのない子ばかりでした。
テレビで流れる母国日本の震災のニュースを見ても、なんだか遠い国のことのように感じられてしまい、
中学2年生だったわたしは、自分はアメリカにかぶれてしまったのかと心配になりました。

そんな時に、クラスメートのひとりが「日本で地震があったけど、マユミのファミリーはOKだった?」
と聞いてくれたのです。
その時関東出身のわたしは、「ああ、自分は(当時は)関西に親戚も友達もいないから、
だから他人事みたいに思えてしまうんだ。」そう気づきました。
そして今のわたしの生活には、ほとんど影響がないから。

人間って、当事者意識なしには、そんな心配したりできないものなのです。
あれから15年近くの時が流れて、わたしの友人知人は全国にいます。東北出身者もいます。
今回の震災では東京もだいぶ揺れましたし、計画停電始め、非日常的な生活を迫られました。
仕事でも外国人が来日しなくなったり、いろいろな物事がストップしたり、今でも影響を受けています。
その当事者性を今後も忘れたくなかったので、ボランティアという形で被災地に行きました。
被災地を見ることで、ボランティアとして少しでも支援に携わることで、心に刻んでおきたかったのです。


結果としては、行ってよかったです。
そして、わたしはひとまず東京で、毎日きちんと、わたしのやるべきことをやるんだと思えました。

この先どんどん時間が経っていくと、いろいろなことを忘れてしまうと思います。
忘れてしまっても、これを見れば思い出せるように。
そんな思いを込めて、ここに備忘録として残します。


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梅と谷川俊太郎